郡上八幡大寄席「第10回」 ― 郷土文化誌・郡上 第9冊 232頁〜234頁より ―
タイトル:
恒例の郡上八幡大寄席が遂に十周年に。
梅雨も吹っ飛ぶ笑いの渦。
出演・
永 六 輔 入船亭扇好
柳家小三治 内海 佳子
入船亭扇橋 内海 好江
時・1984年6月18日(月) 午後7時
所・郡上八幡城山麓 安養寺本堂
木戸銭・前売二千円、当日二千三百円
主催・郷土文化誌“郡上”
本文:
第十回郡上八幡大寄席は、昭和59年6月18日、文字通り大盛況の裡に終わった。
客数は、500人をはるかに越え、これまでの最高、会場の安養寺本堂は溢れるばかり。立ち見客も相当でた。
后5時頃より客は集まり始め、遠くは名古屋、岐阜、高山からの常客も――。「また来ました、どうぞよろしく。」とキチンと挨拶される中老の紳士は、たしか名古屋は大須あたりの人である。そして、今回は、岐阜ラジオの電話インタビューで、編集部の古池五十鈴が名調子で宣伝のせいもあって、岐阜市周辺の客もかなり多い。正に文化の北上である。文化に中央も地方もないだろうという編集部水野隆の持論は、こんな形で、ここでも着々と実現しつつあるといえようか。
安養寺本堂の特設楽屋で、じっと腕時計を見ていた永六輔さんが、7時キッカリに、藍色ののれん(編集部寄贈)をかきわけて、おなじみの顔を――。
10年の歳月の間に、若々しかった永さんも今や中年の風格十分、頭の髪の色は半分白になっている。
名司会永さんの口をついて出る一言一言はもうとてつもなく面白い。たのしい。この世界では何十年のキャリア、あの野坂昭如氏も、青島幸男氏もかつて仰ぎ見る存在で、いまいましいくらいだったという永さんの、このすばらしい話芸は、一体どこからくるのであろうか。
時に、グリコ事件などというホット時事ニュースが入ったり、当日どこかで行われている野球のそれも地元に縁のある対中日戦の状況報告が入ったりするサービスぶり。場外への関心も何もすべてとりこんでしまおうとする永六輔話芸というものが、今、ここにあって、戦後日本の頂点的話芸に、郡上八幡大寄席の入場者は立ち会っていることになる。
日曜娯楽版以来、戦後日本の放送界のド真ン中を歩んできた永さんには、また江戸ッ子特有のマッスグな正義感があり、それが手のこんだ巧みな話法とないまぜになって、口から飛び出るわけなのであろう。前の笑いのしじまが終わらないうちに、またもや新しい笑いの渦が重なって、それが少しもくどくない。
「実は、グリコ事件のネ、本当のヒミツを知っているんです。それを話すと、殺されちゃって、来年郡上八幡に来られなくなりそう……、でもいいや、話しちゃいましょう。」
「今、中日は勝ってます。御安心下さい。安心して落語をきいて下さい。」
など、など。
永六輔VS小沢昭一という豪華なコンビの司会で始まったこの落語会が、それにしても、10回も続いたとは、主催者としても全くもう絶句の思い。
それが、毎回にわたって大入り満員大盛況でやってこられたのは、企画、演出も兼ねた永さんのご熱意、しかも無料出演という考えられないような大変な御厚情にもっぱら支えられている。その上、しかも永さんは、終演のたびに、帰りしなの聴衆に、
「この落語会は、雑誌郡上の皆さんの努力のおかげです。応援してやって下さい。」
と大音響で呼ばって下さって、まことに恐縮する。勿論、郡上や郡上の人々が好きで来て下さっている小三治さんや、扇橋さんの大熱演、大好演があることはいうまでもない。そういえば、いつか小三治さんは、十何年ぶりで実現したという、かつて果たせなかった新婚旅行のコースに郡上八幡をと、奥様を同伴してぶらりとやって来られたことがあった。
永さんもまた、ここの落語会の雰囲気は、とてもいいからと、やはり夫人をお連れになってみえたことがあった。
この10周年を記念して、編集部は、全くささやかながら、永さん、小三治さん、扇橋さん、扇好さんに、それぞれ家紋と御名前入りののれんを特別に染め、贈らせていただいた。永さんは紺地、小三治さんは若草色、扇橋さんは茶地、扇好さんは白地。永さんの家紋のぶっ違いの下り藤というのは、紋帳に全然無くて、いささか悩んだ。そして、編集部の名筆高田英太郎の手書きによる和紙の感謝状も、終演直後の未だ興奮さめやらぬ聴衆の前で、十年皆勤のお三方に贈呈――。本当に、ほんの気持ちばかりである。
編集部は、この十周年を迎えるに当り、いくばくの緊張した思いを持ち、富山県の城端へ研究視察に行っている。城端は、1年早く十周年を迎えた先輩格だからである。
さすが、真宗王国昔時を偲ばせる北陸の名刹が会場であり、一種荘重な雰囲気は、太平洋側のこちら側とでは、出演者は共通なれど、何か違ったものがあった。
ヘンポンと、何十本も立ち並ぶ小旗のようなのぼりの会場へ、陸続と集い来る聴衆は、心なしか、信心深い善男善女のようであり、石彫家の主宰者岩木さんデザインによる券も、古風で、なかなかで、すべてのところ違えばと言う感じだった。ただし、その岩木さんによると、こちらの安養寺さんは、見上げればお城が、眼下には街並みのイラカが続き、辺りからはカエルの声、時には鐘の音が耳に入って、“何ともいいところですナ”とのこと――。そんな風な、一種の事前調査から、大寄席ののぼりをふやしたり、記念品の方針の決定をしたりしたのであった。ふえたのぼりは、一週間前から、おもだか家や、喫茶「門」や、そばの「平甚」、「島崎」など数ヶ所でひるがえり、前触れをした。(のぼりについては、或篤志家の寄付を仰いだ。感謝)
案じた十周年は、ともかく大成功。
10年の間に上質の落語ファンを育てて下さった永さんたちに、改めて最敬礼の思い。
すべてが終わって、会費制で催された泉坂での慰労会で、編集部始め助ッ人の皆さんの表情は、滅法明るかった。
一人で100枚以上も券を売りまくる人、当日の会場の高座作り専従の人、受付のイス、テーブルを軽トラで運ぶ役に徹しているスリーコーチャンズと呼ばれる人たち、音響はマカセトイテ役の人、もっぱら会計の人、楽屋へ必ず朴葉寿司を作って届ける人、等々――。
別に確たる組織も、何もないのに、“今年も大寄席がやってくる”
というだけで、全く無垢の思いで、それぞれの役に徹し、手伝ってくれる人たちは、何てすばらしいのだろう。
裏方というような言葉で、それは単に云いあらわせない。
“みんな一体になってやるんだ”という結合感のようなものが、皆さんの心のうちにあって、自然に湧いてくるのであろうとしかいいようがない。
いわゆる文化会館では、決して生まれない大切なものがそこにある。
私たちの、手づくりの落語会は、今後もそこのところをしっかり守っていかなければと、十周年を終えながら、つくずく思い、考えさせられたのであった。
|