永六輔氏の名司会とともに歩んだ郡上八幡大寄席の歴史語り  
 

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永六輔さんが私の親友の案内でぶらりと郡上八幡へいらしたのが昭和49年8月12日。そのご縁で翌年「やなぎ句会」の吟行の場所として、郡上八幡を選んでくださり、郷土文化史・郡上の編集部に連絡が入りました。
折角揃った顔ぶれだから…ということで、急遽第1回の寄席が開かれることになりポスターは手描き、スタッフの呼びかけもてんやわんやでした。
何せ出演者はチラシにある通りの豪華な顔ぶれ!当店でポスターをご覧になったお客様が、「これってテレビの寄席をみんなでお寺で観るの?」と聞かれた程でした。
こうして郡上八幡大寄席が幕を開けたのでした。
それから幕を降ろすまでの32年間の思い出を「郡上」より、節目ごとに抜粋させていただきました。

郡上八幡大寄席事始のこと  
                   1994年(平成6年)
                       谷沢幸男

奥美濃に根付く本当の寄席
  〜20年目の郡上八幡大寄席〜

 「郡上八幡大寄席」は、今年で20年を迎える。毎回毎年、500人を越す客であふれ、司会の永六輔、落語の柳家小三治、入船亭扇橋のお三方も、ちゃんとちゃんと毎回毎年――。
  20年といえば、生まれた赤ちゃんが成人式を迎える歳月で、主催の「郷土文化誌『郡上』」編集部の面々も皆相当にいい年になり、いささか感無量である。
  「お寺の本堂」の金屏風(びょうぶ)を背に、天下の名人の噺(はなし)家たちが話芸至芸を、時にはネタオロシまで拾うという伝統の落語会。
  しかしその生誕は決して計画的出産でなかったということ、いや全く偶発的なものであったということは、ひょんなことというか、それまた、まさに落語的であったというべきであろうか。
  永さんたちのやっている句会の吟行の地に、たまたま郡上が選ばれた。そして、その宗匠が扇橋師匠で、メンバーには小三治さんや小沢昭一さんもいて、「じゃあ、ついでに落語会も」という次第。
  受けて立った「郡上」編集部の中には、歌舞伎の大通や新劇の大実践者はいても、落語の訳知りが不思議に一人もいない。あわてふためくばかりだったが、その中でとりあえず、安養寺というお寺の本堂を会場に選んだことは、賢明な対処だったと思われる。
  県内でも髄一といわれる大伽藍(がらん)の安養寺は、噺家の皆さんはもちろん、後年やってきた津軽三味線のあの高橋竹山さんも、雰囲気の素晴らしさを絶賛していたほどで・・・。
  ド素人ばかりの編集部の窮状を見て、やがて大勢の助っ人たちが現れた。チケット販売に、会場づくりに、高座づくりに、一人ひとりの皆さんが、一心不乱、一糸乱れずの真剣さ――。その「初心」の懸命さは、20年変わることなく続いた。裏方に徹するその姿は、まさにこの町に生きている文化だった。
  いつでもどこでも最高の芸を…と演者に注文する永さんは、また会場の雰囲気づくりにも厳しかったが、裏方の皆さんの努力の見事さは、さすがの永さんも認めたらしい。
  何回目かの時に、評判を聞いてやってきた松山ちえ子さん(評論家)に「ここの人たちはひたすら、お客様大事に徹していますヨ」と語っていたとか。
  20年、いつも大入りで続いた原動力は、実はもう一つある。それは客質のよさ、レベルの高さということで、永さんの次の言葉が証する。
  「郡上は『こわい』ところなんです。すごく難解な小噺だったとしても、感度がいいというか、すぐ反応できちゃうんです。いい加減のことを言っているわけにはいけない」
  また江戸落語の名人扇橋さんの言葉。
  「ここじゃぁネ、オカシラ付じゃなきゃ通じないんですヨ。こわいところです」
  お二人の言葉、お墨付きというべきか。
  今年も期日は6月13日。ちょうど満目青山の城山の麓(ふもと)、大庇(ひさし)が見え隠れする安養寺本堂は定刻を待たず、早くから落語信者の老若男女で満堂になることだろう。
  近在はもちろんのこと。遠く名古屋、蒲郡、高山などから、泊り込みの常連客も多い。本当の雰囲気の寄席は、いまや郡上八幡にしかない――とは言い過ぎだろうか。
                        (岐阜新聞 文化欄寄稿より)

 
 

郡上八幡大寄席「第1回」 1975年(昭和50年)

【出演】
司会・永 六 輔 小沢昭一 
落語・桂米朝 柳家小三治 入船亭扇橋     

時・6月8日 夜6時

於・安養寺本堂

一般券・1000円(高校生600円)

主催・郷土文化誌“郡上”

 

 

郡上八幡大寄席「第10回」 ― 郷土文化誌・郡上 第9冊 232頁〜234頁より ―

タイトル:
恒例の郡上八幡大寄席が遂に十周年に。
梅雨も吹っ飛ぶ笑いの渦。

出演・
   永 六 輔  入船亭扇好
   柳家小三治  内海 佳子
   入船亭扇橋  内海 好江

時・1984年6月18日(月) 午後7時

所・郡上八幡城山麓 安養寺本堂

木戸銭・前売二千円、当日二千三百円

主催・郷土文化誌“郡上”

本文:
  第十回郡上八幡大寄席は、昭和59年6月18日、文字通り大盛況の裡に終わった。
  客数は、500人をはるかに越え、これまでの最高、会場の安養寺本堂は溢れるばかり。立ち見客も相当でた。
  后5時頃より客は集まり始め、遠くは名古屋、岐阜、高山からの常客も――。「また来ました、どうぞよろしく。」とキチンと挨拶される中老の紳士は、たしか名古屋は大須あたりの人である。そして、今回は、岐阜ラジオの電話インタビューで、編集部の古池五十鈴が名調子で宣伝のせいもあって、岐阜市周辺の客もかなり多い。正に文化の北上である。文化に中央も地方もないだろうという編集部水野隆の持論は、こんな形で、ここでも着々と実現しつつあるといえようか。
  安養寺本堂の特設楽屋で、じっと腕時計を見ていた永六輔さんが、7時キッカリに、藍色ののれん(編集部寄贈)をかきわけて、おなじみの顔を――。
10年の歳月の間に、若々しかった永さんも今や中年の風格十分、頭の髪の色は半分白になっている。
  名司会永さんの口をついて出る一言一言はもうとてつもなく面白い。たのしい。この世界では何十年のキャリア、あの野坂昭如氏も、青島幸男氏もかつて仰ぎ見る存在で、いまいましいくらいだったという永さんの、このすばらしい話芸は、一体どこからくるのであろうか。
  時に、グリコ事件などというホット時事ニュースが入ったり、当日どこかで行われている野球のそれも地元に縁のある対中日戦の状況報告が入ったりするサービスぶり。場外への関心も何もすべてとりこんでしまおうとする永六輔話芸というものが、今、ここにあって、戦後日本の頂点的話芸に、郡上八幡大寄席の入場者は立ち会っていることになる。
  日曜娯楽版以来、戦後日本の放送界のド真ン中を歩んできた永さんには、また江戸ッ子特有のマッスグな正義感があり、それが手のこんだ巧みな話法とないまぜになって、口から飛び出るわけなのであろう。前の笑いのしじまが終わらないうちに、またもや新しい笑いの渦が重なって、それが少しもくどくない。   
「実は、グリコ事件のネ、本当のヒミツを知っているんです。それを話すと、殺されちゃって、来年郡上八幡に来られなくなりそう……、でもいいや、話しちゃいましょう。」 
「今、中日は勝ってます。御安心下さい。安心して落語をきいて下さい。」
  など、など。
  永六輔VS小沢昭一という豪華なコンビの司会で始まったこの落語会が、それにしても、10回も続いたとは、主催者としても全くもう絶句の思い。
  それが、毎回にわたって大入り満員大盛況でやってこられたのは、企画、演出も兼ねた永さんのご熱意、しかも無料出演という考えられないような大変な御厚情にもっぱら支えられている。その上、しかも永さんは、終演のたびに、帰りしなの聴衆に、
「この落語会は、雑誌郡上の皆さんの努力のおかげです。応援してやって下さい。」
  と大音響で呼ばって下さって、まことに恐縮する。勿論、郡上や郡上の人々が好きで来て下さっている小三治さんや、扇橋さんの大熱演、大好演があることはいうまでもない。そういえば、いつか小三治さんは、十何年ぶりで実現したという、かつて果たせなかった新婚旅行のコースに郡上八幡をと、奥様を同伴してぶらりとやって来られたことがあった。
  永さんもまた、ここの落語会の雰囲気は、とてもいいからと、やはり夫人をお連れになってみえたことがあった。
  この10周年を記念して、編集部は、全くささやかながら、永さん、小三治さん、扇橋さん、扇好さんに、それぞれ家紋と御名前入りののれんを特別に染め、贈らせていただいた。永さんは紺地、小三治さんは若草色、扇橋さんは茶地、扇好さんは白地。永さんの家紋のぶっ違いの下り藤というのは、紋帳に全然無くて、いささか悩んだ。そして、編集部の名筆高田英太郎の手書きによる和紙の感謝状も、終演直後の未だ興奮さめやらぬ聴衆の前で、十年皆勤のお三方に贈呈――。本当に、ほんの気持ちばかりである。
  編集部は、この十周年を迎えるに当り、いくばくの緊張した思いを持ち、富山県の城端へ研究視察に行っている。城端は、1年早く十周年を迎えた先輩格だからである。
  さすが、真宗王国昔時を偲ばせる北陸の名刹が会場であり、一種荘重な雰囲気は、太平洋側のこちら側とでは、出演者は共通なれど、何か違ったものがあった。
  ヘンポンと、何十本も立ち並ぶ小旗のようなのぼりの会場へ、陸続と集い来る聴衆は、心なしか、信心深い善男善女のようであり、石彫家の主宰者岩木さんデザインによる券も、古風で、なかなかで、すべてのところ違えばと言う感じだった。ただし、その岩木さんによると、こちらの安養寺さんは、見上げればお城が、眼下には街並みのイラカが続き、辺りからはカエルの声、時には鐘の音が耳に入って、“何ともいいところですナ”とのこと――。そんな風な、一種の事前調査から、大寄席ののぼりをふやしたり、記念品の方針の決定をしたりしたのであった。ふえたのぼりは、一週間前から、おもだか家や、喫茶「門」や、そばの「平甚」、「島崎」など数ヶ所でひるがえり、前触れをした。(のぼりについては、或篤志家の寄付を仰いだ。感謝)
  案じた十周年は、ともかく大成功。
  10年の間に上質の落語ファンを育てて下さった永さんたちに、改めて最敬礼の思い。
  すべてが終わって、会費制で催された泉坂での慰労会で、編集部始め助ッ人の皆さんの表情は、滅法明るかった。
  一人で100枚以上も券を売りまくる人、当日の会場の高座作り専従の人、受付のイス、テーブルを軽トラで運ぶ役に徹しているスリーコーチャンズと呼ばれる人たち、音響はマカセトイテ役の人、もっぱら会計の人、楽屋へ必ず朴葉寿司を作って届ける人、等々――。
  別に確たる組織も、何もないのに、“今年も大寄席がやってくる”
  というだけで、全く無垢の思いで、それぞれの役に徹し、手伝ってくれる人たちは、何てすばらしいのだろう。
  裏方というような言葉で、それは単に云いあらわせない。
  “みんな一体になってやるんだ”という結合感のようなものが、皆さんの心のうちにあって、自然に湧いてくるのであろうとしかいいようがない。
  いわゆる文化会館では、決して生まれない大切なものがそこにある。
  私たちの、手づくりの落語会は、今後もそこのところをしっかり守っていかなければと、十周年を終えながら、つくずく思い、考えさせられたのであった。

 
 

郡上八幡大寄席「第20回」 1994年(平成6年)

【出演】
司会・永 六 輔 内海 好江 
落語・柳家小三治 入船亭扇橋 入船亭扇辰 
色物・花島みな子    

時・6月13日(月) 夜7時

於・安養寺

木戸銭・前売3000円 当日3500円

主催・郷土文化誌“郡上”

【20回目のご挨拶】
  東西東西、毎度御贔屓ありがとうござりまする。
  郡上八幡大寄席もついに二十回になりました。
  何はともあれ永六輔さんを始め御一行様と御顧客様の賜物と心から悦んでおります。
  生活の中に笑いがある。
  笑いの中に真実がある。
  そして、何もかも笑い飛ばしてしまう…
  それだからこそ、落語は私たちの日常の生活の中に一服の清涼剤をもたらせて生きつづけているに違いありません。
  笑う門には福来るとも言います。長生きの秘訣は笑うことだとも言います。いいものですね、笑いは。
  さて、二十年と言う、人間でも大きな節目になりました。未成年ではなくなったんですからね。二十年も毎夏には笑って生きてこられた方もありましょう。
  おめでとうございます、おめでとうございます。

(主催者敬白)

 
 

郡上八幡大寄席「第30回」 2004年(平成16年)

【出演】
司会・永 六 輔  
落語・柳家小三治 入船亭扇橋 入船亭遊一 
    小林啓子    

時・6月7日(月) 夜6時半

於・安養寺

木戸銭・前売3500円 当日4000円

主催・郷土文化誌“郡上”

【30回目のご挨拶】
  東西東西、毎度、御贔屓ありがとうございます。
  郡上八幡大寄席もついに三十回になりました。
  永六輔さんはじめ御一行様とお客様の賜物と心から悦んでおります。
  感謝申し上げる次第です。
  生活の中に笑いが、笑いの中に真実が…そして時には何もかも笑い飛ばしてしまおう。
  私どもは郷土の風物詩郡上八幡大寄席の毎夏開催を進めてきました。
  皆様にも大いに笑っていただけたものと思います。
  ああ、その三十年。何がおこるかわかりません。
  昨年10月、郷土文化誌『郡上』編集長谷沢幸男が卒然と他界しました。
  誰が予想できたでしょうか。人生何がおこるか分かったものじゃありません。
  そこで急遽 冥土からの指図を仰ぎ、不肖・高田英太郎を主催者代表に立て開催に漕ぎつけました。
  が、病の身、この場をお借りしてご挨拶を申し述べる次第です。
  いずれにしろ今年はドエライ節目。乗り越えねばなりません。
  お客様には、それぞれに大いに笑っていただき、自由気ままにくつろいでいただければ幸いです。
  日頃の憂さを笑いで吹っ飛ばせればなお、お寺の鐘の音もきっとうららに聞こえるでしょう。

(主催者敬白)

 

 
 
〒501-4213 岐阜県郡上市八幡町殿町(泉町)
TEL:0575-65-2048 E-Mail:info@mon.pupu.jp  定休日:日曜日