喫茶「門」の誕生秘話からあれやこれやと語ります  
 

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ワタクシ8人兄弟の末っ子なのに、4代目を継いでしまいました。
兄や姉はそれぞれ家を離れた為、孫より若い末っ子が取り残され、私が家を継ぐことになりました。
そして、旅館業(郡上で最も創業が古かった)を手伝っていた21〜22歳の頃、あるお客様から君は若いのに若さがないと言われたのでした。
旅館のお客様はほとんどがお年を召した方が多く、その方々のお相手をしていると、自然に話題は若い方へは向かない実情がありました。
その時のショックを機に、何か好きなことをやってみよう!と決意したのでした。

私の好きなこと??手芸も好きだったので、趣味の店でも始めようかとも考えました。
もう一つは喫茶店でした。
その頃、郡上八幡には喫茶店が2軒しかなかったので、同居している1つ年下の姪に相談したら、二つ返事で手伝うと言ってくれ、面白そうだからやってみよう♪と言う訳でお気楽に門が誕生したのでした。
客商売の経験のない姪は、「いらっしゃいませ」がなかなか言えず苦労していました。

長姉・智恵子姉さんと
長兄は京都で商業デザイナーをやっていたので、お店のデザインから設計、内装に至るまで、全て兄にお任せでした。
凝り性の兄は、自分の思うままにデザインし、天井は金箔張り!床は10p程に輪切りにした丸太を並べてセメントで固め、どこにも無い(多分今でも…?)オリジナリティー溢れる店内となりました。
この時の丸太、家族や知人総出でサンドペーパーで擦ってこすって、大変だったことを思い出します。
そしてメニューも勿論、1枚ずつ手書きで作ってくれました。
当時の面影を残しているのはストロングコーヒーのカップ&ソーサーと表の格子くらいかな?
そうだ、ねじ巻き式のボンボン時計が未だに現役でした!
お店も慣れてくると、ご常連ができます。
始めた当時は、郡上高校の先生が多かったのです。いつも決まって下駄履き姿。何人かの若い独身の先生が来てくださいました。
その中の一人が私の亭主となりました!
私のどこが良かったのか…?。
因みに数学専攻で、囲碁が趣味の無口な人です。
彼は中津川の旧家から婿となり、郡上の人となってくれました。
今では私より郡上の歴史に詳しく、八幡弁を流暢に話し、郡上をこよなく愛し、裏方に徹する地元人と相成りました。感謝!!
長女がお腹の中にいる頃
コレ以降は、門の歩みと共に追々ページを増やしていく所存です。昭和57年(私メが42歳の時)頃の様子は、以下のエッセーでご想像くださいませ。(苦笑)

 エッセイ「素描」で明かした正体諸々
    [昭和57年7月〜8月に岐阜日日新聞(現在岐阜新聞)「素描」より転載]
【劇団“ともしび”】
  33年2月、高校2年の時、先輩が「今度、町で劇団ができて6月に公園するけど、出てもらえんかな」と話を持って来た。
  演劇部に所属していた私は、好奇心も手伝って、早速仲間入り、もう一人の同級生と二人、一般の人に交じって、公民館へけいこに通った。
  3年になったばかりの頃、教頭先生に呼び出され「夜、けいこが済んだら、まっすぐ帰ってくること」との注意を受けただけで、順調に時は過ぎ、6月いよいよ公演という前日、マネジャーの林幹夫医師が、校長先生にあいさつに伺ったところ「わが校の生徒が校外活動に参加しているとは聞いておらん。しかも金を取って公演する催し物に生徒は出せない」という返事。
  思えば、クラブ顧問の先生の許可を受けただけでよい、と考えたこちらがうかつだったわけで、林マネジャーのたっての頼みで、今回限りの条件で許可は出たもの、校長先生は何も知らなかったということで、大層なご立腹だったらしい。後日、顧問から聞いた話では「停学処分にもなりかねなんだぞ」ということ。そんなわけで、せっかく仲間入りした劇団“ともしび”も卒業までは、お手伝いしただけで、名実ともに参加したのは、2年目に入った34年春だった。
  劇団“ともしび”は“山の町に文化の光を”と青年団の演劇グループとはまた違った、大人の劇団目指してスタートした。あらゆる職種の人たちが参加して発足した劇団である。
  転勤・結婚などで、団員の入れ替わりがあって、一時は“風前の灯”といわれながらも、53年秋には、20周年記念に、高田英太郎さんが、凌霜隊を描いた“激浪”を上演して好評であったし、それ以後も毎秋、1つずつ自主公演をしている。
  仕事をしながらのけいことはいっても、年に一度の公演に観客に満足してもらうには、なまはんかな根性で続けて行けるものではない。
  目立ち始めたおなかで舞台に立ったり、赤ん坊を交代でお守りしたり、家族に文句をいわれながら、みんな頑張っている。
  そんなにしてまでなぜ?幕が下りた時のあの充実感!これはペンでも口でも表現できない感激である。
 
【母親の非行】
  中学1年の長女が小学生の時、親子の意識調査をしたことがあった。その調査表の中に、悩みを打ち明けて相談する人は次のだれですか、という項目があって先生、父、母、友達、その他―いずれかに○印をつけるようになっていた。親に対しては、もし子供が悩みを持っているとしたら、前記のどの人に打ち明けるだろうか、という質問であった。
  夕食の時、アンケートの話が出て娘に「悩みを打ち明けるとしたら、やっぱり友達かな」と内心は母と言ってくれるかな、と期待もかけて聞くと「うん、まあ」という返事。私もそうじゃないかと、友達に○印をつけたのだが「それで、いま悩みはあるの」と、母親としては一番気にしていることを尋ねてみた。「べつに」と気のない様子。「でも、何かあると思うわ、本当にないの?」しつこいかなと思いながら重ねて聞く「まあ、あると言えばある」「何よ何よ」「お母さんの非行」「えっ!」。こともなげに言う娘の顔を見ると、にやにや薄笑いを浮かべている。「お母さんの非行って何よ!」思わず語気が荒くなる。「夜遊び。よう出ていくが」。一番痛いところをつかれた。
  たしかに、私はよく出て行く。子供たちに悪いなあと思うこともたびたびである。PTA、婦人学級、喫茶組合、同窓会、趣味の会、数えあげれば、よくもまあ、とわれながら感心?する。子供の目にはすべて夜遊びに映っているのかもしれない。「こんな母親では、とても尊敬してもらえんなあ」と言えば「心配しなれんな、尊敬する人は“両親”の所へ○をつけといたでな」とこともなげに言った。
  親になることは、子を持てばだれでもなれるけど“親である”ということはむずかしい。子供に自分のいやな面を見た時など、血縁の深さをしみじみ感じる。
  せめて話のわかる親のつもりで対話していても、子供のさめた表情を見ると自信をなくしてしまう。
  生涯に たったひとつのよきことを 我がせしと思う 子を産みしこと
 
  昭和万葉集に出ている母親のように、今の私はまだ言いきれない。
 

【郡上おどり】
  長良川の鵜飼もそうであるけど、郡上おどりも雨に降られては、せっかくの風情がなくなってしまう。下駄と手拍子の音が一体となって、初めて郡上おどりの雰囲気が出るわけで、袖をしぼるのは唄の中だけで十分である。
  しかし各町内の祭事は、雨でもその日に行わなければならない。昔から町内ごとに伝わっている行事があって、その供養や祈願をしてから、アトラクションとして郡上おどりが行われるのである。
  だから、もしこれから郡上おどりに来てくださる他所(よそ)の方々、ぜひその日のお祭りの意味を知っていただきたい。
  さて、郡上八幡の夏はおどりで始まり、おどりで終わりを告げる。とりわけ8月13日からの4日間の徹夜踊りは、ひところはやった言葉でいえばフィーバー。まさに熱病そのものである。街中が何かにつけて「盆までには」とか「盆が済んでから」というぐらい生活の目当てになっていて“嵐の前の静けさ”。8月12日は、徹夜営業に備えて仕込などで街中のほとんどの飲食店や旅館が休みになる。
  私の友人の郡上出身で、東京在住の水野進子さんが、永六輔さんを伴って郡上八幡へ現れたのは、9年前のまさにその12日であった。
「店が休むのはわかるけど、旅館まで休んじゃうなんて面白いね」と珍しがってみえた。全国くまなく歩いてみえる永さんが感じられるぐらいだから、これは郡上八幡特有の現象なのだろう。
  シーズン中、商売屋はかき入れ時だから文句はないが、一般家族では遊びに来るお客は増えるし、せっかくのボーナスもアユ料理などの接待で消えてしまう、と愚痴も出るところだろう。手土産一つでウナギのごちそうをして、あちこち案内して、そりゃ、やっぱり勘定は合わない。
  しかし“春風が吹けば桶屋がもうかる”式で八幡町が活気を帯びれば、まわりまわって、どこかで恩恵があるし、人情味の厚い八幡人は「盆が来るぞ、よわった(困った)よわった」と言いながらも来客があれば快くもてなし、喜ばれれば、それで満足している。
  徹夜踊りも17日朝で打ち上げ、ボルテージは上がったまま。残り少なくなった郡上おどりの後半戦に備え、今夜はおどりを休んで郡上八幡は静かである。
 

 

【ゴク道一筋】
眠りゆき 梅雨晴れの夜の 星となる         隆

 昭和53年6月25日、母が亡くなりました。その時いただいた弔辞です。
俳句を読むことはあっても、自分が詠むというのは、学生時代国語の時間に、見よう見まねで作ったぐらいのものでした。私には、およそ縁のないものと決めていたのです。しかし、この弔辞を何度も読み返しているうち、わずか十七文字の中に、亡母に対する私の願いやいいたいことが表現されていて、胸にぐっときました。
俳句で日常の出来事や情景を書き留めていけたら、それだけでも日記がわりになるし、また出来たら素晴らしいなあ、と考え、土佐日記の“人もすなる日記……”じゃないけれど私もやってみようと、同人誌「とねりこ」を主宰している高校時代の恩師、鈴木禾火(義秋)先生にお願いして、例会に連れて行ってもらいました。
仲間入りはさせてもらったものの、雑詠5句、兼題1句、最低6句は作って、月例会に出さねばなりません。なんとか5句だけでもと毎月四苦八苦しています。作品としてはまだまだですが、母の忌とか、父の米寿、卆寿、近況などを句にして残せるようになりました。
俳句を始めたことによって、今まで無関心だったものにも目が届くようになり、道端の草一本でも、俳句の材料にならないかと考えている自分に、思わず苦笑してしまいます。歳時記を時々ひもといていると日本語の素晴らしさ、豊富さに改めて感心させられます。
最近は連句の席にもよんでいただき、一人でひねる句とは、またちがった妙味を楽しんでいます。
8月20日、宗祇水神祭がありました。これは八幡町本町で毎年の行事ですが、その昔、連歌師・飯尾宗祇が、郡上に居住していた歌人東常縁を訪ね、別れにお互い歌を詠んで名残を惜しんだと言われる湧水(白雲水)を今では一般に宗祇水と呼び、石畳を降りると、そこには投句ポストが設けられ、地元、旅行者問わず、寄せられた俳句の中から、毎年天地人の発表も行っています。
今年も有志連で、連句を半歌仙まいて奉納しました。
余談ですが、主人の趣味は碁、私は句、二人合わせて「ゴク道」。これからも精進したいと思います。

 


 
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