1971年から1999年にかけて10巻まで出版した郷土文化誌「郡上」の思い出  
 

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郷土文化誌“郡上”をご紹介するにあたり、恐縮ながら昭和57年夏に岐阜日日新聞(現在岐阜新聞)に掲載いただいた「素描」より引用させていただきます。
もし、この郷土文化誌にご興味をお持ちいただけましたら、是非に門へお出でいただき、雑多な書棚の中の“郡上”をお読みください。全巻揃えてあります。
今は亡き人となられた、惜しんでも惜しみきれない編集長・たにざわゆきお氏と高田英太郎氏のお二方を偲び、その思い出の一片をここに記しておきたいと思います。
 郷土・郡上八幡に「郡上」という本がある。昭和46年秋の創刊で、既に8冊まで出ている。
内容は、あらゆるジャンルの読み物がぎっしり詰まって、何度読み返しても飽きることがない。ひょんなことから編集部の仲間となり、お陰で自分の生まれ育った土地を改めて知り、幾多の知人を得ることができた。この切っても切れない縁のスタッフはそれぞれがユニークで、会合を持つたび、けんけんごうごうとする。主な顔ぶれを紹介してみよう。(敬称略)
編集長のたにざわゆきおは、郡上紬(つむぎ)を扱う呉服店のだんな様。家業のかたわら地方の文化活動に情熱を燃やす。平常は寡黙なるも、飲むほどに口も手足も活発になる人。夜は正体不明なほど酔っていたのに、翌朝早く背広姿でTV局へ打ち合わせに車を走らせる。
郡上北高教諭の高田英太郎は劇団ともしびの20周年に、ドラマ“激浪”を書きおろし、自ら出演もして好評だった。小説も物にし、そのエネルギッシュな活躍ぶりは枚挙に暇(いとま)がない。編集局の要でありオイルでもある。
水野隆。詩人であり民芸館おもだか家のご主人。文芸欄を受け持ち、和歌、俳句、エッセーはもちろん講師としても引っ張りだこ。ついに、TV「徹子の部屋」にも登場した。
“まあちゃん”の愛称で親しまれている水野正雄。繊細な神経と豊かな芸術的センスの持ち主で、“郡上”の表紙は彼の人柄そのものである。
天草の出身なれど郡上で嫁さんもらって住みついている柴田勇治。踊りシーズンになると、手描きの美人画の浴衣で会場へ出没する。この人を語るだけで小説ができるほどだ。
カメラ店主の石田武幸。財務担当。数十年来“お座敷小唄”の踊りで名をはせた。
そば屋のだんなでおなじみの大畑於佐武。唯一の大正生まれだが実に若い。カラオケのマイクを持ったら、懐メロ、ヒット曲なんでもこなす。
何かある時には以上のスタッフが動くが、外に岐阜市在住の写真家、地元で活躍中の諸先輩、県内外の人たちに支えられ「郡上」は今日に至っている。いま9号の編集方針を激論中である。
 
 

郷土文化誌「郡上」第10冊終刊号
編集手帖 (1999年11月15日発行:編集長たにざわゆきお記)

■ようやくの「第十号」発刊。前号出刊からなんと13年というインターバル。
  この13年の時の動きは、まさに<世紀末>がさながらに絵に描かれた如し。「大転倒」の今や「濁世」というにふさわしい。
  そして、個人的なことで恐縮ながら、編集子自身の人生の上でも「変転」があり、このような大幅遅延。大方の御諒解を請い願うばかりです。
■1971年(昭和46年)私どもがこの小誌を創刊して以来、29年の歳月が流れました。しかし、雑誌発刊は9冊のみでした。のに命脈を保ち得たのは、それは何といっても主催「大寄席」のおかげでした。
  しかも司会の永六輔さんは、25回の落語会で、いつも必ず私どもの雑誌のPRをして下さった。肝心の雑誌は空転しているのに、重なるおはげまし。厚く厚く御礼申し上げます。
■本号は、高鷲村特集。それは早くから決まっていながらも、このような大冊になろうとは。
  同村の写真家下牧穂積氏の篤い御配慮や、村長硲孝司氏の全戸配布をという御決断には、編集子心揺さぶられるものもあり―。ともかくけんめいの渾身の編集でしたが、御高配にどのようにお応えできたかどうか。
  取材の中で、随所にさまざまの人の熱い御協力をいただきました。大地を踏みしめ、確として立つ人々が、そこにもここにも。村長さん、下牧さん、また、新稿を何本もいただいた山田幸男さん始め感動的な方々との出会いでした。感謝に堪えません。
■“薄くてもいい、早く出すように”民俗学者谷川健一先生の3年ほど前のお言葉。そうです、そうですとお答えしながら、こんな時期になってしまいました。
  郡上といい、郡上谷という奥美濃の山間地域ながら、原稿をお願いするとどの筆者の方もスグサマというのは、他の地に見られない独自性のようです。今評判の「サライ」誌が、<城下町を歩>シリーズの中で、郡上八幡篇のタイトルに“その文化レベルは信じられないほどに高い”と付けたのも、ゆえのあることのようです。大寄席で小三治さんや扇橋さんが“ここなおカシラつきの芸じゃないと”といつも言われるのも、その証左と存じます。
  古くからの白山信仰や古今伝授などたけ高い文化の血脈が、今も生き続けているゆえと断じていいのでは―。
  それらのことの自覚というか自意識の上での10冊の編集でした。その途次、柳田国雄「山の人生」冒頭叙述の個所の誤謬が発見できたり、鮎川信夫「荒地」構想の地が郡上・石徹白だったことが立証できたり、この山峡の地での小さな雑誌発行の持続は、思いもよらず深い意義を持ったのではと、ひそかに自賛に近い気持ちです。
■奥山をコトコト走る列車のように極めて遅いスピードでしたが、この10号刊行を以て、ここに終刊としたく存じます。1999年、意識的に選んだわけではありませんが、世紀末スレスレに間に合ったわけで、なにか感慨深きものを覚えています。
  皆様、長い間ご愛読ありがとうございました。
■毎号申し上げることですが、広告に協力をいただいた皆様、とくにこのような景気低迷の時期に、強くあと押しの心意気を下さって、深く謝します。
■最終号の刊行に当り、斎藤印刷さんには、足かけ4年にも及んでのお世話、御礼の言葉もありません。ほとんど採算は合わないにちがいありません。編者とともに歩んでの御協力でした。この地の文化の発光はここにもまた―。
  また担当の内ヶ島弥生さん、全くごくろうさま。たびたびの編集変更にも、まことに厄介極まる大仕事にもかかわらず、いつもいつも滑らかに当って下さって編集子も驚きの連続でした。
  500頁近いこの大冊の雑誌印刷は、ひとえに内ヶ島弥生さんの誠実なお仕事のおかげさま。
  大感謝の花束を捧げたく存じます

 
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