郷土文化誌「郡上」第10冊終刊号
編集手帖 (1999年11月15日発行:編集長たにざわゆきお記)
■ようやくの「第十号」発刊。前号出刊からなんと13年というインターバル。
この13年の時の動きは、まさに<世紀末>がさながらに絵に描かれた如し。「大転倒」の今や「濁世」というにふさわしい。
そして、個人的なことで恐縮ながら、編集子自身の人生の上でも「変転」があり、このような大幅遅延。大方の御諒解を請い願うばかりです。
■1971年(昭和46年)私どもがこの小誌を創刊して以来、29年の歳月が流れました。しかし、雑誌発刊は9冊のみでした。のに命脈を保ち得たのは、それは何といっても主催「大寄席」のおかげでした。
しかも司会の永六輔さんは、25回の落語会で、いつも必ず私どもの雑誌のPRをして下さった。肝心の雑誌は空転しているのに、重なるおはげまし。厚く厚く御礼申し上げます。
■本号は、高鷲村特集。それは早くから決まっていながらも、このような大冊になろうとは。
同村の写真家下牧穂積氏の篤い御配慮や、村長硲孝司氏の全戸配布をという御決断には、編集子心揺さぶられるものもあり―。ともかくけんめいの渾身の編集でしたが、御高配にどのようにお応えできたかどうか。
取材の中で、随所にさまざまの人の熱い御協力をいただきました。大地を踏みしめ、確として立つ人々が、そこにもここにも。村長さん、下牧さん、また、新稿を何本もいただいた山田幸男さん始め感動的な方々との出会いでした。感謝に堪えません。
■“薄くてもいい、早く出すように”民俗学者谷川健一先生の3年ほど前のお言葉。そうです、そうですとお答えしながら、こんな時期になってしまいました。
郡上といい、郡上谷という奥美濃の山間地域ながら、原稿をお願いするとどの筆者の方もスグサマというのは、他の地に見られない独自性のようです。今評判の「サライ」誌が、<城下町を歩>シリーズの中で、郡上八幡篇のタイトルに“その文化レベルは信じられないほどに高い”と付けたのも、ゆえのあることのようです。大寄席で小三治さんや扇橋さんが“ここなおカシラつきの芸じゃないと”といつも言われるのも、その証左と存じます。
古くからの白山信仰や古今伝授などたけ高い文化の血脈が、今も生き続けているゆえと断じていいのでは―。
それらのことの自覚というか自意識の上での10冊の編集でした。その途次、柳田国雄「山の人生」冒頭叙述の個所の誤謬が発見できたり、鮎川信夫「荒地」構想の地が郡上・石徹白だったことが立証できたり、この山峡の地での小さな雑誌発行の持続は、思いもよらず深い意義を持ったのではと、ひそかに自賛に近い気持ちです。
■奥山をコトコト走る列車のように極めて遅いスピードでしたが、この10号刊行を以て、ここに終刊としたく存じます。1999年、意識的に選んだわけではありませんが、世紀末スレスレに間に合ったわけで、なにか感慨深きものを覚えています。
皆様、長い間ご愛読ありがとうございました。
■毎号申し上げることですが、広告に協力をいただいた皆様、とくにこのような景気低迷の時期に、強くあと押しの心意気を下さって、深く謝します。
■最終号の刊行に当り、斎藤印刷さんには、足かけ4年にも及んでのお世話、御礼の言葉もありません。ほとんど採算は合わないにちがいありません。編者とともに歩んでの御協力でした。この地の文化の発光はここにもまた―。
また担当の内ヶ島弥生さん、全くごくろうさま。たびたびの編集変更にも、まことに厄介極まる大仕事にもかかわらず、いつもいつも滑らかに当って下さって編集子も驚きの連続でした。
500頁近いこの大冊の雑誌印刷は、ひとえに内ヶ島弥生さんの誠実なお仕事のおかげさま。
大感謝の花束を捧げたく存じます |